向坂文庫の整理を終えて

法政大学大原社会問題研究所 若杉隆志

一、はじめに

 法政大学大原社会問題研究所(以下大原社研)は、今年三月『向坂逸郎文庫目録X 原資料』を刊行しました。既刊の四冊とあわせ全五冊、これにより向坂逸郎文庫の全容は明らかとなりました。
 大原社研が、向坂逸郎先生が生涯をかけて収集された図書・資料のすべてを夫人のゆき氏より無償で贈与されたのは一九八五年七月のこと。「蔵書は散逸させる事なく、社会に寄付して大ぜいの人々が利用できるようにしたい」という「向坂の意思を活かす最善の道」と決断されてのことでした。大原社研はこのお申し入れをありがたく受け、先生のご意志が十分活かされるよう、保管・運用することを約束しました。             それから実に十五年余り。そして向坂先生が亡くなられてからは十六年余。大原社研はようやくにしてその約束を果たすことができました。ともかくも、ここにたどりつけたことに、蔵書の整理を担当した一人として大きな安堵を覚えております。
 今回は編集部の求めにより整理実務を担当した関わりから整理作業の実際、感じたことなどを書かせていただきます。なお、本誌三七九号(一九九五年五月)に中間報告「向坂文庫整理作業の現在」を書きました。あるいはそれと重なることもありますが、あわせてお読みいただければ幸いです。
        
二、冊子目録の構成と内容

 向坂文庫の各分冊は次のような構成、内容になっています。
 T 日本語図書分類順
 本文が日本語の図書、一万五〇〇一点、二万一三九〇冊を分類順に収録しており、主題ごとに本を探すことができます。文庫目録の一冊目ということで向坂先生の紹介、当時の所長の二村一夫による受贈の経緯などを記した「はじめに」も載せました。
U 日本語図書索引
 Tの『日本語図書分類順』に収録された図書を書名、著者名の五十音から探すことができます。活用する際には第一分冊の巻末に掲載する方がより便利とは思われましたが、それではあまりに厚くなるために索引のみで独立して一分冊としました。
 V 外国語図書
 本文が日本語以外の図書八一一一点、九八八一冊を収録しています。そのほとんどがドイツ語の本です。図書を分類順に配列し、巻末に書名索引、人名索引を付けました。また、Tの『日本語図書分類順』同様、堺利彦旧蔵書についてはサイン、蔵書印を付記しました。
 W 逐次刊行物
 雑誌、新聞、年鑑類を日本語と外国語に大別し、各々五十音順、ABC順に配列しています。あわせて約四千タイトルあります。
X 原資料               
図書、逐次刊行物以外の資料、すなわち労働組合や政党などの定期大会資料や、発受信文書、書簡、原稿、その他現物資料などを戦前・戦後に大別し、主題別に収録しています。第四分冊の「逐次刊行物」発行のあと確認された機関誌類(主に社会党、国労関係)も一部含まれています。他に抜き刷り約六百点も載せています。そのほとんどに向坂先生あての献呈辞があります。
 また、最終巻ということで、小島恒久氏による「向坂逸郎 その人と業績」及び和気誠氏による「略年譜」「主要著作目録」を特別に寄稿していただきました。他には考えようのない最適任のお二人でした。和気氏には時間不足の中での不本意なままでの掲載となり、申し訳ないことではありました。しかし、向坂先生の人となりを理解する上で最終巻にふさわしい解説、年譜、著作目録となったと、実際に目録を手にした方からの感想をいただいております。

三  文庫整理のことども

(一)十五年余を要したこと
 大原社研としての当初の計画は十年を目途としていました。すなわち前半の五年で基本的なデータ入力を行い、後半の五年間でデータを編集・編成し、冊子目録を順次刊行していくということでした。それが結果的には十五年余を要した理由は大きく二つあります。
 まず第一は、文庫の規模がなにしろ膨大であること。このことは蔵書を受け入れたときからすでにおりこみずみのことではありました。しかし、現実に向坂家書庫から大原社研の書庫に移された蔵書群を目の当たりにして、当時在籍していた職員たちは、ただためいきだったと聞いています。
 さらに、先生が亡くなられてからも、友人・知己からの図書の寄贈は続いており、それに加えて、ご自宅や書庫の中から新たに整理がすんだ図書がダンボールで二十、三十と追加の寄贈が相次ぎました。もとより大原社研としては、ご自宅の生活資料も含めて、あるものすべてを向坂文庫として受け入れるというのが方針です。
 向坂文庫の規模はすでに一つの公の図書館を充分に超越しています。一個人の文庫としてこれだけの規模のものは、これまで私の知る限りありませんし、おそらくはこの後もないだろうと思います。
第二の理由は予算措置です。ものごとをすすめていくには資金と人の手当が欠かせません。内うちのことではありますが書かせていただきます。
 向坂文庫の整理は大原社研が立案し、正式に大学の特別事業として認められました。一九八六年度から九四年度までの九年間で総額で約五四〇〇万円です。内訳は冊子目録の印刷費、データ入力の委託費、備品や消耗品の購入費、郵便費、臨時職員の人件費などです。専任職員の人件費はこれには含まれていません。
 この予算は当初大原社研が要求した額の半分にも満たないということです。大原社研としてはスタート段階から事業計画の見直しを余儀なくされました。しかしながら、この額は決して少額ではありません。少子化で受験生が減少期に向かうこの時期に、私立大学としてこれだけの予算措置をしたことは大英断だったと私は思います。この時の予算折衝にあたった二村元所長をはじめとした大原の職員と財務当局とのやりとりは相当に熾烈だったと聞いています。当時権限をもってことにあたった財務の職員はすでに退職していますが、そのもとで実務を担当した職員からは今でも「いやあ、あのときの向坂文庫の金額にはびっくりしたよ」とよく聞かされます。
 特別事業としては九四年で終了し、その後は経常経費の中で実行継続することになります。一部の予算科目は経常経費に盛られたとはいえ計画のペースダウンはいなめません。通常業務の中で原資料類の整理がかろうじて継続されることになります。加えて私学をめぐる経常環境がより厳しくなるのを受けて専任職員の削減が九八年、九九年と二年続きました。当初は向坂文庫の担当をほぼ専任に近い体制でおけていたのが、他の業務との兼務にせざるをえませんでした。
 しかしそれでも、ようやく二〇〇〇年度の単年度事業として向坂文庫の特別予算が認められました。一二〇万円と、かつてとは比較にならない少額ではありますが、現下の大学の経常環境のもとで向坂文庫公開の社会的責任を果たすための大学としての精一杯の予算措置でありました。このたびの最終巻「原資料」の資料目録はそのため、実際にはもっと詳細にデータ入力・資料整理をしたにもかかわらず、おおまかなグループにまとめざるを得なかった(とりわけ社会党、国労など)のはそのためでもあります。

(二)多くの方たちの力で
 大原社研への寄贈に至る経緯については、実に多くの方々の配慮と協力があってのことと、ゆき夫人が「たむけぐさ」(「社会主義」二五六号)に書かれています。そして実際に向坂先生の蔵書が向坂家から大原社研に移ったのは一九八六年三月、大原社研の市ヶ谷から多摩キャンパスへの移転と同時でした。
 私が事務職員として向坂文庫の整理に関わったのは八八年の四月からです。当時蔵書は向坂家の書庫にあった状態のまま集密書庫に仮配架されていました。そして寄贈を受けるとき一緒にいただいた図書文献リストのデータ入力がほぼ終わり、そのチェック・校正をすすめているところでした。このリストは和書は和気誠氏を中心とする資本論研究会の会員有志によって、また洋書は近江谷左馬之介氏とその助手の十文字豪郎氏によってつくられたということです。向坂文庫のすべての蔵書のリスト作成はさぞかし大変だったろうと思います。このリストがなかったら、今ここに『社会主義』の読者の方々に整理のご報告ができることはなかったことは明白です。ご尽力されたみなさまに、あらためてこの誌面をお借りしてお礼を申しあげます。近江谷氏にはその後も洋書の書誌データの校正・監修にひとかたならぬご協力をいただきました。ご存命中に文庫目録の完成をご報告できなかったことが心残りです。
心残りといえば、故川口武彦氏もそのおひとりです。文庫の受け入れに深く関与され、また受け入れ後も大原社研のある同じ町田市に住んでいらっしゃったこともあってか、堺利彦の研究などのためにたびたび研究所に来られました。そのたびに「最終分冊ではぜひ文庫解説をお書きいただきたい」とお願いをしていたものです。このように遅れることがなければ、と悔やまれることしきりです。遙か上の方からお二人のおしかりが聞こえてくるようです。ここにあらためてご冥福をお祈りいたします。
 そして、所内にあっては、向坂文庫の整理方針、実施計画の立案は研究所の諸レベルの会議で議論の上決められます。実施にあたっては現在の専任職員五名、臨時職員九名、それに退職・異動した人も加えればこの十五年間に延べで三十名近い職員が直接・間接に蔵書整理に関与しました。
 直接私が担当したのは目録の一〜三分冊、そして第四分冊は御子柴啓子が担当し、第五分冊は法政大学の大学史資料の整理担当として経験豊富な大野健一郎が主に担当しました。また是枝洋(九三年退職)は私の直属の上司として整理実務に関して多くの助言、指導を仰ぎました。文庫受入に際し、窓口となって尽力された二村元所長(九九年退職)からは整理方針から実務に至るまでその時々に適確なアドバイスをいただき、また良知邦江、小野磨里をはじめとした多くの臨時職員が直接に図書整理にたずさわりました。また吉田健二をはじめとした研究所の研究員の方々、学内の教員の方々にも資料の分類、整理や外国語文献の解読などで様々な協力をいただきました。
 こうした多くの方々のお力があってはじめて向坂文庫の整理がここまで進んできたといえます。研究所の内うちのこと、それも業務としてのことですが、あえて紹介させていただきました。

(三)、向坂文庫の整理はまだ終えていない
 それでもなお、向坂文庫の整理は、現段階では「一応」終えたという段階です。
 その意味は、第一に目録に収録していない資料がいまだにかなり大量にあるということです。なかでも書簡類、原稿のうち『原資料』に掲載したのはごく一部で大部分はご自宅に保管されています。これらをすべてリスト化して目録に載せるとなるとなお相当の時日を要します。また書簡類は現存している方々のものが大半で、そのまま公開はできなかろうという事情もあります。それにも関わらず今回数点載せたのは、向坂文庫には書簡・原稿も含むことの表明と、すでに歴史史料といってよい堺利彦関係の確認された書簡類です。
さらに先述したように、向坂家には目録発行後も友人・知己からの図書類の寄贈は続いております。それらも含めていずれ「補遺版」として公表する予定でいます。
 そして第二に、文庫の整理は冊子目録を発行することを最優先にしてきましたので、整理実務に関わるいくつかのことが残されています。
 一つは図書の登録・装備です。目録の発行により文庫の内容は明らかとなり、利用は可能となったのですが、資料の提供をより的確かつ迅速に行うためには、図書・雑誌の一点ごとにしかるべき登録・装備をする必要があります。日本語図書はすでに終えており、今は外国語図書の過半が終了したところで、雑誌・新聞・原資料は未着手です。
 また、重複している資料の扱いの問題もあります。研究所をめぐるきわめて現実的な課題の一つは書庫スペースの狭隘化です。向坂文庫を受け入れた当時は多摩移転直後であり、書庫は広々としていました。ところが今や書庫は寄贈を受けたままの状態のダンボールであふれています。近年の労働組合の再編成や活動家の現役引退などによる資料の処分に際し、図書資料の散逸を防ぐため、これらを積極的に研究所が受け入れてきたことによります。
 こうした中ですでに大原社研が所蔵している資料と重複しているもの、例えば「社会新報」や「中央公論」などについては、他の労働関係機関にリユースするなどして、新たな収蔵スペースを確保していくことを検討しています。
 そしてさらに図書・資料類の保存措置もあります。『社会主義』三七九号にほこりとかびのことを書いたところ、後日向坂家を訪問した際、ゆき夫人より、とても気にされているとのことをうかがい、かえって恐縮したものです。
 大原社研のように近現代の社会運動の資料を扱っているところでは、ほこりをかぶった本や劣化した文書などを受け入れることはなんら珍しいことではなく、むしろそうした資料こそ他の一般の図書館にはない歴史的資料として価値を持つものが多いと考えています。向坂文庫の図書・資料類は研究所としての資料保存問題を現実の課題としてつきつけてくれました。我が国で紙の酸性劣化の問題が社会問題としてアピールされたのが一九八二年、日本図書館協会に資料保存委員会が設置されるのが一九九〇年のこと。
 それから図書館界・出版界ではさまざまなとりくみがなされ、今日にいたっており、向坂文庫の整理もまさに、この流れとともに、それに学びながらありました。温度・湿度・光など適切な環境管理、中性紙の使用、紙の中和処理、媒体の変換など様々な取り組み、試行を行ってきました。今後とも計画的に行っていく予定です。

(四)向坂文庫は公開されている
大原社研は労働問題の研究機関であると同時に公開のライブラリーでもあります。労働問題・社会問題に関心のある人なら誰でも自由に来所し、所蔵資料を利用することができます。国内はもとより外国からも大原社研にしかない資料を利用するため来所されます。また利用する資料が明確であれば、直接来所しなくても文献コピーの郵送サービスや、図書館・研究機関を通して文献の郵送貸出しも行っています。
 「大ぜいの人々が利用できるように」との向坂先生の意思のまま、大原社研で受け入れた直後から整理中であっても可能なかぎり利用の希望があればおこたえしています。そして順次、冊子目録を刊行することにより、より利用の便が高まっています。またいまや、情報検索に欠かせなくなっているインターネットでも日本語図書はすでに検索可能となっています。外国語図書、逐次刊行物も準備がととのいしだい、ホームページで公開していく計画です。
 「あの・・インターネットでみたんですけど、こうさかぶんこの○△を見たいんですけど・・・」「三池争議を研究しているんですが・・」と若い大学生、研究者が来所されます。初期社会主義運動を研究されている方々は、受け入れた時のダンボールに入ったままの堺利彦旧蔵資料を何度も見にこられました。
 こうした研究・教育、学習の利用のみならず、研究所の社会運動史料の復刻出版の底本として活用したり、あるいは憲政記念館などが催す資料展示会へ出品、提供するなど、より広範に利用されている資料もあります。例えば『資本論』初版本、『職工事情』、堺旧蔵の社会主義同盟関係のノート類、片山潜自筆「在露三年」などがそれです。これらはすでに第一級の歴史資料といえます。
 今回の原資料編の編集過程で与謝野晶子、馬場孤蝶らによる堺利彦あての書簡が確認されるなどしており、原資料の目録公開は社会運動、労働運動の研究に新たな一石を投ずることになるでしょう。
また、文庫の見学も利用のひとつの形といえましょう。社会主義協会や労働組合の活動をとおして向坂先生と交遊のあった方々が相次いで来訪されています。見学にみえた方々からうかがう向坂先生にまつわるお話は、仕事をすすめていく上でおおいに役にたち、また励みにもなりました。ここのところ見学が少なくなっていますが、今回の目録完結を期にまたぜひおいでいただきたいと思います。

(五)向坂文庫が大原社研にもたらしたこと
 向坂文庫の受け入れはなんといっても大原社研の蔵書を質量とも充実させたことでしょう。大原社研には向坂文庫の他にもう一つ規模の大きなコレクションとして協調会文庫があります。一九一九年に半官半民の団体として設立された財団法人協調会の蔵書をそっくり引き継いだものです。戦前期の社会・労働問題に関する官庁刊行物、ILO関係、労務管理関係図書がその中心です。
 同じ労働問題、社会問題を扱いながらもいわば官側である協調会が収集した蔵書、マルクス経済学者で社会主義運動を生涯実践された向坂先生が日本で、ヨーロッパで収集された蔵書、それらと大原社研が八十年余りにわたって収集してきた蔵書とは意外と重複は少なく、相互に補いあって研究所の蔵書を豊かなものにしているといえます。
 そして向坂文庫が大原社研にもたらした意外な副産物が一つあります。それは研究所のコンピュータ化です。大原社研は学内で他の研究所や図書館に先駆けて図書整理にコンピュータを導入しましたが、その先鞭をきったのが向坂文庫の整理への導入です。寄贈していただいたときのリストをもとに外部業者にデータ入力を委託し、そのデータを研究所内でパソコンにとりこみ、データチェック・修正をすすめました。さらに文献データの選択、検索、様々な索引作成、さらに冊子目録への出力などなどパソコンの持っている機能をフルに活用し、整理業務の効率化を図りました。もしもこうした整理作業をカード目録をベースに行っていたとしたら、などとは想像だにできません。
 今日でこそ臨時職員も含め一人に一台のパソコンが用意されるほど、研究所業務にパソコンは欠かせないものとなっており、また大原社研のホームページの内容の充実ぶりは法政大学内で群を抜いているのみならず、国内、外国からも高い評価を得ています。その基盤とノウハウは向坂文庫の整理とともにつちかわれてきたといえます。
 そしてまた、案外大原社研にもたらされた一番の財産は人のネットワークといえるかもしれません。もちろんそれ以前からも社会主義協会や労働大学、社会党とは資料の交換や利用で、また研究員個人レベルでも交流はありましたが、向坂文庫の受け入れ・整理・利用の様々な場面でより密接なつながりが築けています。それは川口武彦氏や、小島恒久氏、和気誠氏ら指導的な立場の方々もさることながら、多くの現場の若い労働者の方々がこの多摩の大原社研まで来ていただいたことからもいえます。とてもありがたいことでした。向坂先生がつちかった人のネットワークのひろがりを感じさせられます。

四、おわりに
 大原社研が向坂文庫の寄贈を受けてからの十五年余。そして私がその整理に関わった十二年余は私の図書館員としての生活に特別のこととして刻まれることになりました。
 それは文庫という様々な内容・形態の資料が形作っている一つの世界、向坂逸郎という世界に一貫して関わることができたということでしょうか。九州に出張した折りには足をのばして九大、八女、大牟田、熊本と向坂先生の足跡をたどったこともあります。あの大争議のころとは様変わりしたであろう、かつての炭住地区を歩きながら向坂教室に思いをはせたことも懐かしい想い出です。
 私的なことになりますが、法政大学に就職する前は地方自治体の図書館司書として比較的定型的な仕事をしてきた私にとって、あらためて図書館職員としての総体的力を問われることにもなりました。本はいうに及ばず、チラシや蔵書印などありとあらゆる「資料」に直面する日々はまさにトライ・アンド・エラーの日々でした。パソコンに入力したデータの一週間分が一瞬にして消えてしまったこともありました。しかし、それを越える達成感もまた多くやりがいがあり、なにより楽しい仕事でした。
 そして今、目録を完了して、向坂文庫が本来もっている力がそれらの様々なことどもをすべて解決してくれると実感しています。
 法政大学は、現在夫人が生活されている上鷺宮の土地、建物も遺贈と云う形で寄贈を受けることになっています。向坂先生が朝夕目をやっていた軒先のつくばいには、ゆき夫人により「一九五二年六月より一九八五年一月まで、向坂逸郎この地に住みき」と刻まれています。向坂逸郎先生は文庫ともども、いつまでもその行く末を見続けていかれることでしょう。社会主義の意義が問われ出して久しくなります。今日の日本の情況にてらして、より創造的に発展させることがなによりの先生の希望であり、そのためにこそ、文庫は公開され続けていきます。

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