私の月誌(2003年1月)

満州引き揚げ史料のこと

 大原社会問題研究所の書庫に10余年眠っていた史料がありました。戦後の満洲、中国からの引き揚げに関する史料です。1989年、当時の研究員、二村さんが、国際善隣協会が廃棄しようとている史料の散逸を危惧する知人から連絡を受け、とりあえず大原社研で受け入れ、保管していたものです。ところが、大原社研のメインテーマでなかったことから受け入れ後もそのままダンボール詰のまま放置されていたものです。
 大原社研が市ヶ谷から多摩キャンパスに移転したのは1986年のことです。おりから労働界はナショナルセンターの再編成の時期であり、そのあおりで労働組合資料室の縮小・切捨てに伴い、労働運動関係資料が散逸の波にありました。また労働運動や社会運動にかかわった活動家・知識人の現役引退に伴う資料も散逸の危機にありました。大原社研は移転直後で、比較的収蔵スペースに余裕のあったことからこうした資料の受け入れに積極的に対応しました。なかでも量的に最大の受け入れは故向坂逸郎氏旧蔵の図書・資料でした。ほかにも多くの労働組合・団体・個人からの寄贈を受け入れました。当時の二村所長の考えであり、研究所の方針でした。
 しかしながら、こうして受け入れた資料は、物理的なスペースでも、また整理するマンパワーをも超えるものでした。そうして21世紀になり、ダンボールの数はざっと千を超えました。私は、だからといって、こうした積極収集策が問題だったとは思っていません。これにより多くの社会運動関係資料が散逸の危機を免れ、今日にいたっています。労働問題の研究・資料館を自負する大原社研としては多少無理をしたとしても妥当な対応だと考えます。
 そうこうして書架はほぼ満杯になりつつあり、書庫の床はダンボールであふれるに至り、新たな受け入れに困難をきたすほどになりました。本来であれば新たに書庫を増築するなどの対応がとられるべきですが、昨今の法政大学をめぐる財政環境下で思うに任せません。そこで、大原社研では昨年7月から11月にかけ、特別体制を組み「ダンボール減量大作戦」を行いました。千を超えるダンボールの中から図書類を抜き出し、すでに所蔵している図書と照合し、重複しているものをリスト化しリユースに回す。また、所蔵していないものは必要・不必要に振り分ける。こうした作業をとおして1/3のダンボールを減らすことができました。  この減量作戦の一環として、かつて受け入れたものでも現時点で収集範囲を超えるものについてしかるべく活用していただける機関に再移管することを検討しました。かつてある機関から受け入れたものの、そのまま放置していたものを、当該機関が収蔵スペースができたことから10年ぶりに戻したものがありました。
 そして、この満洲引き揚げ史料は滋賀大学経済・経営研究所へ移管することになりました。この研究所は旧植民地関係資料のコレクションを有し、もっとも史料が活かせるところであろうとの判断でした。10年余を経て史料が再び日の目をみることになったわけです。
 ところでこの移管のきっかけとなったのは「アーキビスト」のネットワークです。一昨年12月の徳島アーカイブツアーを行ったグループが、昨年多摩地区でアーカイブツアーを行いました。このとき見学先として大原社研も入っていましたが、このツアーに参加した滋賀大学の経済経営研究所の江竜さんとの交流がきっかけでした。ひょんな偶然が史料のリユースを生んだというわけです。
 今日かつてと違って、一機関が資料を網羅的に収集するという時代ではなくなりました。大原社研は労働運動・問題の資料保存機関としてそれなりの評価を得ていますが、それでも収蔵スペース、整理のマンパワーでは自ずと限界があります。ましてや一私立大学の付置研究所としてはです。それぞれの機関が特性と条件に応じ資料を収集し、ネットワークを通して活かす工夫をしていく。
 今回の移管で死蔵されていた史料が活かせることとなり、また、大原社研としても空いたスペースで本来収集すべき資料を受け入れる場が得られたことになります。そしてまた、史料の収集・保存にかかわるアーカイブとアーキビストのネットワークの存在とその可能性に想いを新たにしたことも大きな収穫でした。
 


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