全官公庁労組共同闘争委員会 「二・一ゼネスト・ポスター」 1947年

 「一歩後退、二歩前進」と涙を拭いながらストの中止を告げる労働組合の幹部の映像が記憶にありました。法政大学に転職する前、地方公務員だったころ組合の学習会でのことだったでしょうか。
 前の職場では何度もストライキに参加しました。人をオルグするような性格ではなかったし、その能力もなかったので中央執行委員や、支部委員とかは避けていました。でも、職場委員は分不相応とは思いながらも可能な限り引き受けました。組合中央がストを通告するたびに当局から依命通知なるものが示されました。末端の職場分会でも職場委員は管理職に呼び出され依命を受けました。要するに「君たち違法なストをやってはいけないよ」といった内容だったのでしょう。読み上げる管理職もなおざりだったし、聞くほうも単に儀式としか受け取っていませんでした。それほど1970-80年代ころの労働運動は高揚していました。組合も支持し実現した革新県政下での労務管理はかつての超保守県政時代と様変わりしたことも背景としてあったのでしょう。
 大原に来てはじめてこのポスターを眼にしたとき、そうかこれがそもそもはじまりのポスターだったのか、と感慨にふけったものです。
 全官公庁労組共同闘争委員会が「生活権獲得、祖国再建」を掲げて1947年2月1日に予定したストは民間労働者も含め600万人が参加するはずでした。しかし、GHQ最高司令官マッカーサーはアメリカ占領軍の武力を背景にその前日に禁止を指令します。武力・暴力で労働者の基本権を弾圧する構図は戦後も変わることはありませんでした。
 ゼネストは中止されましたが、この闘争により組合側は経済要求や労働協約獲得など多くの前進がありました。しかし同時にGHQの反動的性格もあらわとなった画期となります。このストを占領軍の民主化政策の転換点とする歴史家もいます。
 占領直後GHQはわが国の民主化政策をあらゆる分野ですすめ、労働組合活動もまた民主化の一環として奨励していましたが、やがてその本質である反共主義を露骨にし、翌1948年には政令201号により公務員のストライキ権を剥奪、やがてレッドパージへとさらに逆コースをさらにたどりはじめます。
 それから60年余、公務員のストライキ権はいまだ奪われたままです。日本は国際的にみてはずかしい無権利状態といえます。(2007年5月記)
 


史料が語る近現代史(目次)に戻る