菊池寛 「選挙ポスター」 1928年

 菊池寛が、戦前、昭和3(1928)年2月に行われた第一回総選挙立候補の時のポスターです。刊行物や展示会等によく利用されているポスターのひとつです。
 研究所に見学にみえた方に所内を案内し、ポスターコレクション(戦前期約3千点、戦後期約1500点)を収めている図面ケースのところにくるとまず見ていただくのがこのポスターです。図柄がとてもきれいなこと、菊池寛ならほとんどの人が知っているのでなじんでいただけるのではないかといった理由からです。
 そして多少知ったかぶりの薀蓄をいいます。
 「この時菊池寛は安部磯雄を党首とする社会民衆党という無産政党から立候補しています、無産政党といっても一番穏健な政党でしたが、、」「フレーズがいいですね『文藝家にも議席を與えよ、読書階級の人は菊池寛氏を撰べ』」「デザインはどうですか、この時の規制で色は二色以内という制限がありました、しかし見てください、そうは見えませんね、とてもカラフルです」「本人は代議士になろうという野心はなかったようです。安部磯雄からの再三の要請により立候補したものです」「選挙運動もほとんどやらなかったようです。今でいえばタレント候補のはしりといえなくもないですが、この時おしくも次点で落選します」
 菊池寛のポスターを収めているケースの隣には新聞紙で謄写版刷りした代野逸治のポスターがあります。菊池のポスターとは違い、もろ無産政党という感じで泣かせます。
 この1928年の第一回普通選挙は、これまであった所得制限が撤廃され、25歳以上の成人男子であれば誰でも投票ができた最初の全国選挙でした。普通といっても女性に選挙権があったわけではありません。女性の参政権は戦後1947年の総選挙まで待たなければなりません。普選運動は大正デモクラシーの象徴のような国民運動・世論の高揚を受けて制定されたものですが、反面、悪名高い治安維持法の制定との抱き合わせで「アメとムチ」ともいわれています。
 しかしともかくも、一挙に選挙人が前回の300万人から1300万人に増えました。それに伴い街角にはさまざまなポスターが張り出されました。大きさ(新聞紙大まで)と色(2色まで)の規制はありましたが、掲示場所については今のように規制されませんでした。ポスターに見る多彩な表現形式に注目すればわが国のイメージ選挙の源は第一回普選からはじまるとする研究者もいます。
 当時政友会と民政党という二大政党がありましたが、いわゆる無産政党からも90名の候補がたちました。研究所が所蔵しているのは無産政党のものが大半ですが、一部政権政党の側のものもあります。
 選挙の結果は無産政党からは、安部磯雄、亀井貫太郎、鈴木文治、西尾末広(以上社会民衆党)、水谷長三郎、山本宣治(労働農民党)、河上丈太郎(日本労農党)、浅原健三(九州民権党)の8名が当選します。無産政党の相対得票率は4%、全体の投票率は80.3%でした。いまどきの選挙の投票率の低さと比べて、当時の国民のなんと政治意識の高かったことでしょう。これも発見のひとつです。(2007年8月記)

<参考文献>
『ポスターの社会史』(法政大学大原社会問題研究所編、ひつじ書房、2002)


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