木崎村小作争議 「ビラ・チラシ・写真など」 1926年

 旅先でよく昔の豪農の館が公開されているのを見ます。ふだん狭い集合住宅に暮らしているわが身になぞらえ、その広大さには眼を見張るものがあります。巨大な富を蓄積した大地主がいれば、その背後には多くの貧しい小作農民がいたことにも思い至ります。つい60余年ほど前の農地改革により小作制度が撤廃されるまで、江戸時代とさほど変わらない農村の姿がここ日本にあったことなどもう昔のことなのでしょう。
 「新潟では農民運動のコーナーが欠かせないのです」。県立歴史博物館の開設準備のためにたびたび大原に調査にこられた担当のIさんがおしゃっていたことです。そのことばどおり2000年に開館した県立歴史博物館には和田、王番田、木崎と新潟で起きた大規模な小作争議の資料がしっかりと展示されています。
 Iさん、「農民運動や社会運動というとどうしても暗いイメージがつきまとい上層部はなかなかスペースをくれないのです」とも。いやどうしてどうして、ビラ、チラシ、地図、そして当時の農民の貧窮をあらわす人形などがところ狭しと陳列されていました。そういわれてみれば歴史系の博物館に戦前戦後の社会運動に関する資料が展示されているのをあまり見かけたことはありません、新潟はむしろ例外に属するのかもしれません。ビラで罵倒されている大地主の名前はさりげなく紙で覆われていました。プライバシーを考慮してのことでしょう。それでも展示したIさんはじめ担当の方々のご努力が伝わります。
 大正時代半ばころから昭和の戦前期にかけて全国各地で繰り広げられた小作争議の中でも木崎の争議は特筆されるものです。1926年に、小作料の減免を求める農民に対し、地主側は土地への立ち入り禁止処分で対抗したことから始まったこの争議。農民側は、農民組合を組織し、村政の改革、税金不納、小作人子弟の同盟休校、農民学校の設立、村立図書館の設置などで対抗します。日本農民組合は新発田に出張所を開設し、早稲田大学で学生無産者団体「建設者同盟」に参加していた三宅正一を定住させ、争議を指導します。木崎という一地域を越えて総地主と支援する官憲対総農民という図式となっていったのです。短期間であったとはいえ、農民たちが争議の中で独力で学校や図書館を運営したことは、自らの文化と教育を創造しようとしたこととして画期的なことであったということです。
 争議は1930年に和解が成立しますが、小作人の耕作権は認められませんでした。しかしその後の裁判で小作人側に有利な判決が下されることへの道をつくりました。
 木崎村は今はもうありません。戦後豊栄市との合併を経て今回の平成の大合併で新潟市の一部となっています。余談ですが、私の故郷巻町も同じくこのたびの合併で新潟市に吸収されたので、木崎も私の故郷の一地域ということになってしまいました。
 木崎はもともと新潟の市街からさほど遠くなく、バスの便も比較的いいところです。水田地帯が変わることはないでしょうが、ちらほらアパートも建っているということです。こんど田舎にいくことがあったら当時の小作農たちが運営した農民小学校跡地にあるという「木崎争議記念碑」を見にいこうと考えています。研究所の史料とともに、争議の時の農民たちの志を今に伝えてくれていることでしょう。(2007年9月記)

」 <参考文献>
『木崎農民小学校の人々』(合田進介著、思想の科学社、1979)



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