米騒動史料 1918年

 研究所の戦前期資料を収めている書庫の奥に黒い表紙に製本された120冊の簿冊があります。米騒動史料、俗に細川資料とも言われているものです。北は北海道から南は鹿児島県まで、全国にわたる米騒動を記録するほかに比類ないコレクションといえます。今では利用頻度はそう多くはありませんが、研究者の利用やテレビ番組や展示などに時々提供しています。  最近では2006年9月に放送されたNHKの番組「NTV特集その時歴史が動いた”米騒動”」に提供しました。広島での民衆の蜂起に際し、武力で弾圧するために官憲が用いた暗号電文がアップで舐めるように画面に映されました。当時の官憲の暴力的体質に改めて驚かされます。担当ディレクターとカメラマンは何度もいろんな角度からこの電報を撮影されていました。
 また、過日はこの一大民衆運動の発祥の地富山県魚津市の共産党市会議員の方が閲覧にみえました。魚津では米騒動を顕彰する記念館を設立する運動もおきており、そのための調査ということでした。
 この資料の収集は、当時研究所員だった細川嘉六がヨーロッパ留学中に片山潜の示唆を受けて提案し、大正15年から昭和8年にかけて細川を責任者として研究所の事業として行われました。実際の収集は調査室の越智道順、萩原久與等があたり、また、浅野晃、布施辰治ら所外の多くの人の協力がありました。収集した新聞記事や裁判記録の筆耕は3・15事件の被告家族の内職としても行われたということです。経済的困難を抱える家族を支援するという意味もあったのでしょう。
 こうして収集された資料は戦後細川嘉六の手許に保管され、その後京都大学へ移されました。京都大学人文科学研究所では井上清を中心としてこの資料を整理し、その成果は大著『米騒動の研究』に結実しました。資料はその後細川の遺志により1963年に研究所に返還されます。
 米騒動史料に関連して、研究所の創立に至る経緯に関わることにふれておきます。それは、大原孫三郎が社会問題の研究所の創立に思い至る契機の一つにこの米騒動があったであろうことです。米騒動は先に記したように1918年7月に富山の一漁村に端を発し、瞬く間に北陸諸県そして全国へと広がります。孫三郎が大阪天王寺に愛染園を設立するのが1917年、翌18年1月の新築に際し救済事業研究室を設けています。その開所式で孫三郎は、この研究室を近い将来独立した研究機関に発展させる、との意向を表明しています。貧困問題など社会問題の解決には応急的な救済事業では不十分であり、より根本の研究を組織的に行う必要があることに思い至っていた孫三郎のその思いは、早くもが翌年の社会問題研究所の設立に結実する。日本をゆるがし、内閣を倒すまでに大きな社会運動となった米騒動が孫三郎の決意を促したであろうことは想像に難くないことです。

<参考文献>

『米騒動の研究』(井上清、渡部徹編、有斐閣、1959-62)
『大原社会問題研究所五十年史』(法政大学大原社会問題研究所編刊、1970)


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