大杉事件 「死因鑑定書」 1923年

 大杉栄、伊藤野枝、大杉の甥橘宗一の3人は、1923年9月1日におきた関東大震災の後の混乱の中で、9月16日、憲兵隊大尉甘粕正彦らにより、麹町の憲兵隊本部で虐殺されました。大杉はこの日、伊藤と共に横浜鶴見の弟一家を訪ね、妹の息子橘宗一を連れて新宿柏木の自宅に帰る途中のことでした。大杉39歳、伊藤29歳、宗一7歳。
 死因鑑定は軍法会議予審官陸軍法務官の指示、立会いのもと、軍医田中隆一が9月20日から翌21日にかけて行いました。鑑定書は田中により2部作成され、内一部は田中軍医が昭和14年に中国で戦死した後も敏子夫人により大切に保存されてきました。
 その書の存在が明らかにされたのは1976年のことです。たまたま田中軍医の後輩の医師が、自費出版の本の中で田中軍医の思い出を書くために夫人に連絡をとったところ、夫人がこの書のことを話されたのがきっかけでした。
 事件の首謀者の甘粕は軍法裁判で懲役10年の判決を受けますが、わずか3年余で出獄し、後に満州で再び権勢を振るいます。この事件の裁判記録は散逸しているため、軍の関与、死因など事件の詳細は明らかでなく、謎の多い事件でしたが、鑑定書の公表により半世紀を経て正確な死因が明らかとなったわけです。当時朝日新聞は「扼殺だった大杉栄--ひどい暴行、胸に骨折」と大きく報道しました。
 鑑定書は全文公表後も遺族の元に保管されていたのですが、今年(2007年)6月に敏子夫人の長男隆夫氏より当研究所に寄贈されました。
 震災後の混乱の中で起きた悲惨でいまわしい朝鮮人虐殺、亀戸事件と並ぶ大杉事件。その記録として第一級の歴史史料といえます。とはいえ、いきなり連行し、暴行し首を絞め、井戸に投げ捨てる、しかも7歳の子どもまで。治安警察法下の官憲の凶暴性を伝えるなんともいたましい歴史史料です。(2007年9月記)

<参考文献>
「朝日新聞」1976年8月26日
『大杉栄追走--大杉・野枝・宗一死因鑑定書』(黒色戦線社、1984)


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