竹久夢二 社会主義新聞の「コマ絵」 1905年頃

 竹久夢二(1884-1934)と大原社会問題研究所、片や叙情的な美人画で名を馳せた画人、一方は社会科学の研究所。どこに接点があるでしょう。
 実は私もつい最近知ったことですが、、夢二がまだ無名のころに社会主義者と交流があったのです。それまであのナヨナヨとしたやたらに眼の大きな美人画には率直にいってあまり好感を持っていませんでしたが、そのことを知ってからは少し見方を変えてみようと思いました。
 夢二は17歳のころ岡山から家出同然で上京し早稲田実業学校に入学します。早稲田で教鞭をとっていた安部磯雄のキリスト教社会主義に影響を受け、日露戦争への機運が高まる中で非戦論に共感を覚えるようになります。やがて、社会主義者たちとの交流が生まれ、もともと持っていた絵の才能を活かし当時の社会主義運動の新聞「平民新聞」「光」「直言」に風刺の効いたコマ絵を描くようになるのです。その絵は単色で荒削りながら率直に社会を見つめ批判性に満ちています。描かれる女性は後の美人画にみられる叙情性をすでに持ち合わせながらも独特の意志力を感じさせます。絵にそえた短文でもピリカラな才をみせます。
 「平民新聞」を発行した平民社に出入りし、社員だった荒畑寒村と雑司ケ谷の鬼子母神の近くで一時共同自炊生活をするのもこの頃のことです。実際は寒村が夢二の下宿にころがりこんだようですが。寒村らとの下宿生活からあのような絵と文が生まれたのでしょうか。
 こうした夢二の一面を私が知ったのは、2001年に町田市立国際版画美術館で開催された「夢二展」に協力した時のことです。学芸員のKさんがたびたび研究所に来所し、明治時代の初期社会主義運動の機関紙に掲載された夢二のコマ絵を詳細に調査されました。
 その結果、展示会場の初期夢二のコーナーでは「平民新聞」「光」「直言」などがドーンと見開きで展示されました。コマ絵自体はその名のように小さく、紙面のほんの一隅に描かれていますが、なにせ展示では新聞全紙を丸ごと見開きで見せなければなりません。スペース効率はいかにもよくない、でも逆にそれが展示会場に一種独特な空気をかもし出しているように感じたものです。「平民新聞」にしろ「光」にせよいずれも復刻縮刷版が刊行されています。しかしやはり多少赤茶けていても現物の持っている力は大きいと思いました。
 図録には製本された新聞ゆえ展示されなかったコマ絵も含めすべて掲載されました。この図録は、内容の豊かさ、膨大なページ数からこれまでの図録というイメージをはるかに超え、展示とあわせ夢二の全体像をとらえうる、まさに圧巻です。まことにスケールの大きな企画であったといえましょう。
 やがて夢二は画家としてたつことを決意し、社会主義系の新聞コマ絵から、一般商業誌のコマ絵や表紙絵を精力的に手がけるようになります。売れるようになったのですね。初期のコマ絵にあったような批判性はしだいに薄れ、あの独特の悲哀を帯びた色調・画調へと変化し、洗練されていく様が展示会でもよく表現されていました。
 夢二をよく知る人には著名になる前にこうした社会主義者たちと交流のあったことは知られていたことかもしれません。でもここまで丁寧に調査され、展示にとりくまれた町田市立版画美術館の学芸員のおかげで私はその一面を知ることができました。あらためて担当された学芸員の底力を実感しました
 この展示があってからか、その後、世田谷文学館(2004年)や千葉市美術館(2007年)の催す夢二の展示会に「平民新聞」などの提供が続いています。
 研究所は竹久夢二関係の資料として、映画監督・映像作家であった故藤林伸治(ふじばやし・のぶはる)氏の旧蔵資料も所蔵しています。1997年に関係者より寄贈されたものです。藤林が取材の過程で収集した図書、新聞切り抜き、録音テープなどがあります。とりわけ晩年1932-33年にドイツに滞在した夢二に関する多様な資料が含まれています。藤林は夢二がユダヤ人救出の地下活動に協力したという情報も追っていたということです。このドイツへの旅行を、無名時に社会主義に共感したころの夢二自身への回帰ではないかとする研究者もいるようです。帰国後晩年にドイツのバウハウスに構想を得て榛名山の麓で産業美術学校の建設を試みます。結局映像化はされませんでしたが、藤林がどんな眼で夢二を追っていたかを思い巡らすのも興味深いものです。(2007年5月記,2016年6月一部修正)

<参考文献>
『夢二 1884-1934 アヴァンギャルドとしての叙情』(町田市立国際版画美術館、2001)
「藤林伸治資料インデックス」http:oohara.mt.tama.hosei.ac.jp/arc/fujibayasi.html


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