山宣告別式 「映画フィルム」 1929年

 労働農民党の代議士山本宣治が右翼七生義団の黒田保久二により宿泊中の東京神田の旅館で刺殺され、40歳の生命が絶たれたのは1929年3月5日のことです。
 山本宣治、通称「山宣」は産児制限運動から労働運動にも関わるようになり、1928年の第1回普通選挙で労働農民党から立候補し当選します。治安維持法の改悪や山東出兵に反対し帝国議会で孤軍奮闘していた矢先のころです。
 このフィルムは東京・本郷仏教会館で行われた告別式の模様を撮ったものです。125秒、無声。撮影者はプロキノの支援者だった岡田桑三。岡田は大正11-12年ベルリン留学中に村山知義と親しくなり、帰国後も村山と仕事をする中で岩崎昶、蔵原惟人らとの交友からプロキノとも関わるようになります。多くの労働者・国民に悼まれた山宣の告別式を記録するという使命感もそんな岡田だから思い至ったのでしょう。撮影は官憲の眼をかいくぐって行われました。
 ところで、ベルリンで岡田を村山知義に引き合わせたのはなんと森戸辰男でした。森戸はベルリンでの岡田の身元引受人だったのです。クリスチャンであった岡田の母は息子の留学に際し相談した師父から当時教会で長老だった渡辺荘の息女が森戸辰男と結婚して一家でベルリンに留学していることを聞き、岡田の世話を森戸一家に頼んだのです。このとき森戸は大原社会問題研究所の研究員として留学中でした。ベルリンで森戸を介しドイツやソ連の前衛芸術に触れたことは岡田のその後の人生に大きな影響を与えたようです。帰国後もプロキノ関係者との交流は続きます。戦後は東京シネマの社長兼プロデューサーとしてドキュメンタリーや文化映画の分野で活躍します。

  (その当日)松竹ニュースの赤い腕章を左に巻いて、オープン・カーのタクシーを門前に用意して置いた。会場がひどく暗かったが、死に顔を撮りたい旨を願ったが、奥村甚之助が代表して「むごたらしいデス・マスクを写さないでくれ」と断られた。会場を 出棺するところから葬列が本郷三丁目の東大仏教青年会館に移されるまでの様子を、待たせて置いたタクシーに乗って、並行して移動撮影記録した。(岡田自伝ノート)
  私のオープン・カーは葬列より先に会場玄関に着くと直ちに、警官の列を押分けて館 内に入り二階に駆け上って通りに面した窓を開けて、カメラを近づく棺に向けて構えた。そこへ元富士署の綱島署長(彼は東大で村山知義の同窓だ)が入ってきた。ちらっと彼を見て、「ご苦労さん!」とこちらから声をかけた。それで彼は、松竹ニュースの腕 章にちらっと眼をやったが、そのまま部屋を出て行った。カメラは玄関前に到着した棺にフォーカスを合わせてシャッターを押した。ここまででフィルムを使い切った。(岡田自伝原稿)

 1930年9月、フィルムはプロキノの活動資金を捻出するため森戸を介して研究所に持ち込まれ、研究所は75円で購入します。戦中このフィルムは被災を避けるため井戸につるして保管していたため戦火をくぐりぬけることができました。ところが、つるしていた縄がきれてフィルムは長い間水につかっていたのです。久留間所長は死ぬまでそのことを悔いていたといいます。
 幸いにして、このフィルムの存在を知った映像プロデューサー原田健一さんによりビデオ化していただいた結果、傷んでいたのは最初の1,2秒のみで後は鮮明な画像で再生されました。1996年のことです。
 わずか125秒の映像からこのフィルムに関わったじつに多くの人たちの想いが伝わってきます。(2007年8月記)

<参考文献>
「プロキノ製作「山宣告別式」をめぐって」 (原田健一、「Fs」5号、1996)
『岡田桑三 映像の世紀--グラフィズム・プロパガンダ・科学映画』(川崎賢子・原田健一著、平凡社、2002)


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